雷鳥社メールマガジン「Photo365MAGAZINE&DIGITAL PHOTO LABO」エディターのイタガキです。

本能で感じるまま表現し続けたい 写真家・桑嶋維インタビュー インタビューvol.1

今週は闘牛、闘犬、闘鶏など独特の世界観と迫力ある写真で、注目を浴びる若手写真家・桑嶋維さんの登場です。今年5月には写真集『朱殷』(求龍堂)を出版。一度見たら忘れられない、見るものの心をひきつけてはなさない、そんな写真を撮る桑嶋さんとはいったいどんな人物なのでしょう。今週より5回のロングインタビューにて、桑嶋さんに深く迫まっていきます。第1回目の今週は幼少時代のお話です。

曾祖母が築いた吉原の家

生まれ育った環境や幼いころの体験が、何かを表現するきっかけやテーマに、何らかの影響を与えることは少なからずある。桑嶋さんの場合は、子供のころの経験から感じたことそのものが、大きく現在の作品に繋がっているようだ。

「僕は、その“生まれ育った環境”というところでは、半ば勝ったような気がします(笑)」

1972年東京生まれ。

桑嶋さんが誕生から幼少までを過ごした実家は、吉原のど真ん中にある。東京の吉原一帯というのは、江戸時代から遊郭として栄え、かつては日本の遊郭の中でも最大規模のものだった。戦後GHQの公娼制度によって遊郭が廃止とされるが、実際にはカフェや料亭などと看板を変え、遊女たちを求めて多くの男たちが通う場として残り続けたという。

「吉原は、僕の母方の実家なんです。僕の曽祖母というのは、なかなかのやり手実業家だったらしいんです。戦後、東京が焼け野原になった時、曾祖母は“ここは私の土地よ~!”って勝手に決めて、今の新宿や池袋のあたりにも土地を持っていたらしいんですよ(笑)。その中のひとつが、吉原だったわけです」

「曾祖母も、最初は遊女屋、いわゆる風俗店をやっていたらしいんです。今でも、あの辺りには風俗店が150店舗くらいありますけど、戦後の復興期には倍近くあったらしい。それだけ当然競争も激しかったわけです」

「そこで曾祖母は、“なんとかして、そのライバルをお客にすることができないか”って考えた。そこで思いついたのが、食堂だったんです」

「当時の遊女屋というのは、いきなり男女がひとつの部屋へ入って行為に及ぶ、という仕組みではなく、まずは遊女たちを呼び、お酒を飲んで、食事をする。そうやって楽しんだ後に…というような、粋な遊びをしていたわけですね」

「だから、食べ物の需要というのは、吉原には常にあったんだと思います。でも、うちは料亭のようなところではなく、あくまでも “普通の食堂”。その目の付け所がよかったんでしょうね。普通の食堂を作れば、吉原界隈で働く女の人やタクシードライバーなどが食べに来るんです」

遊女とタクシードライバーに囲まれて

バブル崩壊で景気が傾く以前まで、桑嶋家の食堂の景気はとてもよく、家には住み込みで働く女性が常に2~3人いたという。住み込みの女性に加え、お店にやって来る遊女たち。桑嶋さんは生まれた時から、日常的にたくさんの女性たちに囲まれて育ってきた。

「風俗の女性が、よくうちの食堂でお客さんと待ち合わせをしていたんですが、お客さんを待っている間、子供の僕を可愛がってくれましたね」

「吉原の街というのは、なにか外の世界とは切り離されているような、まるで吉原一角が紫禁城みたいな感じです(笑)。だから、吉原のど真ん中に住んでいる子供もすごく少なかった。僕は、さながら紫禁城の中のラストエンペラーって感じでしたね(笑)」

食堂にやってくる客の半分は、遊女屋の女性たち。そして残りの半分は、女を求めてやって来る男たちを乗せた、タクシーの運転手がほとんどだったという。

「最近の風俗店というのは、誰にも顔を見られないようにドア・ツー・ドアで入っていけるけど、昔はタクシーでお店に出入りしている人が結構いたんです。それで、タクシーの運転手さんたちは、お客さんを待つ間、うちの食堂の座敷で時間をつぶしていることが多かったんです」

「タクシーの運転手さんって、お客さんを乗せていろいろなところに行く仕事でしょ。運転手のおっちゃんたちから、色んな場所の話を聞かせてもらうのが楽しくてね。だから、一番最初になりたいと思った職業は“タクシーの運転手さん”でした」

子供の頃から、遊び相手は、もっぱら風俗のお姉ちゃんか、タクシーの運転手さん。そして…。

「ヤクザのおじさん。今にして思えば、なんですけどね。当時は、“大人が着るスーツっていうのは、みんなダブルで縦縞模様が入っているんだ”と思っていました(笑)。コーヒーをビチャビチャとこぼしながら運ぶ僕に、“坊主ありがとう”って言って、おだちんをくれたりしました」

東京・吉原のラストエンペラーは、周りにいるバラエティーに富んだ、個性豊かな大人たちと遊んだり、話を聞いたりしながら、人一倍好奇心旺盛な少年となっていった。

何でもありなんだ!

母方の実家は吉原で、商売気質な家系。一方で父方の家系は、元々宮城県の地主で家柄が良く、石巻から仙台へ行くのに、一度も他人の土地を踏まずに行くことができたという。

「親父は、そういう“家柄”みたいなものに対して、変な自信を持っていましたね」

家柄も良く、一流企業に勤務していた父親だけに、桑嶋さんへの教育指導は厳しかったのではないだろうか?

「うちは両親とも、全くの放任主義でしたよ。それに、うちの親父はね、本当に女性が好きでね、家にはめったに帰ってこなかったし(笑)。家族で夕食を食べるでしょ。食べ終わったと思ったら、“じゃあ、帰るか~”って親父が言うんですよ(笑)。“おいおい、どこへ帰るんだよ~”って感じですよね(笑)」

「時々、女性から家に電話がかかってきたりもしましたよ。親父が待ち合わせに来ないからって怒っているんです。仕方ないから僕は親父のふりをして、“おい、ちょっとくらい待っとけよ~”って言っておいて、後で親父にメモを残したりね(笑)」

「母親もちょっと変わっていて、最近家にいないなと思ったら、バイクでツーリングへ、なんてこともありましたよ。バイクが好きでね。僕ね、子供の頃、車は走っている時にずっと“キンコーン、キンコーン”ってチャイムが鳴るものだと思っていたんですよ。スピード出しすぎの時に鳴る車の警告音が、ずっと鳴っていたんです。うちの母親、かなりのスピード狂だったんですよ(笑)」

「そんな両親から受けた影響はといえば、“何でもあり!”っていうことですかね」

「吉原の食堂を作った曾祖母も、変わったばあさんでね。生前から“稼いだお金は一銭も残さないよ”と言っていたらしくて、実際に見事に使いきって亡くなりました(笑)」

「何に使ったかというと、一人でクイーンエリザベス号に乗って世界一周したり、南極へ行ったりしてたんですよ!! 確か、南極へ行った女性としては、世界で2番目だったんじゃないかな。だから、曾祖母はいろんな国のコインを持っていましたよ。“このお金を使っていた国は、今はもうないんだよ”なんて話を聞いたりしながら、子どもながらに“あ~国ってず~っとあるものじゃないんだ”って思った記憶があります」

「とにかく、当たり前だと思っている価値観が、次から次へと壊されていくんですよ。吉原という場所にしても、僕の曾祖母にしてもそうですけど、自分の想像を絶する人がいるんだ!って。社会のルールや常識の壁を、ぶち破って押し広げていく人物が、いつも僕の前に現れるんです」

 

本能で感じるまま表現し続けたい 写真家・桑嶋維インタビュー インタビューvol.2

東京・吉原生まれ、子どもの頃から、遊び相手も個性豊かな大人たちという、稀有な環境で育った桑嶋さん。その環境が呼ぶのか、ご自身が引き寄せるのか、行く先々で、刺激的な経験をしながら成長し続けます…。今週は少年時代のお話から進学先、イギリスでのお話です。

国内カルチャーショック

桑嶋さんが小学校に上がる年、父親の転勤で、桑嶋一家は大阪へ引っ越すことになった。父親はいわゆる転勤族。その後も、桑嶋さんが小学4年生の終わりから5年生にかけてを兵庫県で、6年生の1年間を愛知県岡崎市で、そして中学、高校時代を同じく愛知県の豊橋市で過ごすことになる。

「最初に引っ越したのは、大阪は東淀川区。そこがまた、当時治安が悪い地域ベスト5に入るんじゃないかっていうような場所でね。本当にいろんなことがあって、面白かったところでしたよ。一般に“当たり前”とされている概念が、僕の中で常に覆されていくような感じだったんです」

「住んでいた地域がちょっと特殊だったのかもしれないけど、とにかく生まれ育った環境っていうのも、写真をやっていく上で、いろんなネタというか、引き出しというか、すごく役に立っていると思います。おかげで、今も写真の仕事をしていく上で、僕は大抵のことでは驚かなくなりました(笑)」

同じ環境にいても、そこで起こっていること、目にしたことを面白いと思えるかどうか、それは全く人それぞれだ。単に生まれ育った環境によるものだけではなく、桑嶋さん自身が明るく前向きな性格だからこそ、どんなことも新しい発見として楽しめたのではないだろうか。

転勤族の父親について、関西、東海を転々とし、繰り返される“転校生”という立場が、桑嶋さんの積極性や自己表現能力を培っていったともいえるようだ。

「転校して行く先々では、言葉が違うから、自分からどんどん発していかないと理解してもらえないんですよ。僕みたいに、常に外から入っていく場合には、自分が何を考えているのか分かってもらったり、認めてもらうためには、自分から何らかのアクションを起さなければ何も始まらなかったんですよね。とにかく自分からどんどん話しかけて、積極的にそのコミュニティーに入っていった。生徒副会長も務めましたよ。」

「大阪に限らず、どこへ行ったときにも、僕はそのギャップみたいなものを楽しんでいましたね。言葉だけじゃなくて、食文化とか、習慣の違いとか、同じ日本であっても受けるカルチャーショックみたいなものが、すごく面白かったんです」

「それが、今、まさに僕が写真で表現しているもの、そのものなんですよ。日本にいながらにして感じるギャップの面白さです」

高校も、地元で一番レベルの高い県立高校に入った桑嶋さんだが、進学先とか、将来のことはどのように考えていたのだろう。

「一時期は、医者や弁護士を目指していたこともあったんですが(笑)、大学受験を前に、僕はまた勉強しなくなっちゃった。先生も僕らを大学へ行かせようと必死でね、“大学は行ったほうがいいぞ~。ここだけの話な~、先生も昔は…”って感じで、毎日のように説得されましたね(笑)」

なぜ大学に行きたくないと思い始めたのか?

「高校3年生の時に、友達の女の子が『JUNONスーパーボーイズコンテスト』に僕のことを応募したんです。そうしたら、優勝こそしなかったものの、なんと決勝まで残っちゃったの」

「それでもう、地元に戻ってきたら、天狗ですよ。“まあ、僕は俳優か何かになるんじゃないのかな~!”ってね(笑)。でもね、その後スカウトも何も、一切来ませんでした。今になって冷静に考えてみたら、スカウトが来るわけがないんですよ。まずね、センスがない。今っぽいファッションをしているとか、歌がうまいとか、僕にはそういうものが何一つなかったから」

「田舎者の僕は、一人で、ワインレッドのダブルスーツを着て出たんです。一人ヤング松方弘樹ですよね(笑)。更に、一芸を見せるにあたって、歌を歌ったんですが…。本当に、その時まで全く気づかなかったんですが、僕は驚異的な音痴だったんです。だから、俳優にしても、歌手にしても、スカウトが来るわけなかったんです」

「高校を卒業した時点では、俳優になるか、音楽のビデオクリップの監督になるか、この2つしか考えていなかった。僕は音楽が好きで、特にビデオクリップを見るのが好きだったんです。当時、海外留学が流行っていて、それで僕も海外へ行こうと思って、イギリスに渡ったんです。きっかけは、好きなアーティストがたまたまイギリスのバンドだったから。BlurとかOasisとか、いわゆるブリティッシュロック全盛の時期で、僕も好きだったんですよ」

孤独な天才と信じてた

イギリスでは、まず語学学校に入って英語の勉強。セントラルセントマーチン(Central Saint Martins College of Art & Design)への入学を希望していたため、そこのファンデーションクラス(基礎クラス)で、グラフィックデザインや写真の授業を受けていた。

「僕は、映画の勉強をしようと思っていたから、ムービー制作のコースも受講しました。フィルムというのは、24分の1フレーム、または30分の1フレーム、つまり1秒間に24個又は30個のカットが流れるわけです。そこで僕は、“30分の1フレームごとに完璧な絵を作ることができれば、それらのカットの連続であるひとつのムービー作品は、ものすごい傑作になるはずだ!”と思ったんです」

「“1フレームの完璧な絵を作りたい!!”“やっぱりまずは写真からだ” それで写真を始めることにしたんです。イギリスやアメリカでは、ファッションフォトグラファーがミュージックビデオクリップを撮ることが多いですしね。それからは、毎日どこへ行くにもカメラを持って、友達を撮ったり街を撮ったり…写真にどんどんハマっていきました」

当時、ファッションのマーケティングを学んでいた桑嶋さんは、写真をもっと学ぶために広告制作の学科に編入した。

「写真で食べていくには、やはり広告系の写真、つまりクライアントがいて、依頼を受けて写真を撮るという方が一般的ですよね。アート系では、なかなか仕事に結びつかないですから。それにアートというのは、自分の中にあるものを表現するのであって、人から教えてもらうものではない。それで、広告業界がどういう仕組みになっていて、どうやったら広告の仕事ができるのかといったことを勉強しようと思ったんです」

それまで、音楽のビデオクリップが好きだったとはいえ、いざ写真を始めてみて、その作品はどんなものだったのだろうか?

「本当にひどいもんですよ(笑)。今はカメラが進化しているから、露出に関してはそんなに問題ないんです。でもね、初めて入れたフィルムで撮ったものが、骸骨の模型(笑)。しかも、その骸骨にポーズをつけさせていて、それがまた本当にセンスがない。その時は、必死で色々と試行錯誤して形を作ったんでしょうけど、でも何をしているのか分かってなかったんですね」

「写真を撮る時には、自分が何を撮りたいのか、何故撮るのか、何をやりたいのか…そういったことが一番大切なんだなぁって思いますね」

「僕の場合は、写真を始めたのが22歳だけど、カメラマンを目指す人って結構子供の頃から写真が好きで撮っているような人が多いでしょ。でも、自分が“何を撮りたいのか”っていうのは人それぞれで、年齢とは関係ないところがある。場合によっては、カメラマンとして売れっ子になってから気づく人だっていると思いますよ」

最終的には、デジタル・フォトグラフィー科に編入。22歳から写真を始めた桑嶋さんとは対照的に、昔から写真をやっていたり、プロの広告カメラマンもいたりとはっきりとした目的を持った生徒たち中で学ぶ。

「課題が出て、その作品についてみんなでディスカッションするクラスがあったんですが、僕はその授業が一番楽しかったですね。僕の作品は…発表の後の質疑応答でも、何も意見が出なくて、すぐに次の人に移ってしまいましたが(笑)。今にして思えば、センスなかったんだなぁって思いますけど、その当時の僕は、“あ~やっぱり天才って孤独だな~”ぐらいにしか思ってなくて、意見がないことなんて全然気にしていなかった(笑)。100歩下がったとしても、“僕は外人だから、意見を言っても分からないから言わないんだろうな”くらいにしか考えていなかったんです。当時は、本当にそう思っていたんですよ(笑)常に前向きなんです。」

面白いと思ったものを自分なりに撮る

スタジオでの広告写真撮影は、モデルの手配からヘアメイクまで、ほとんど学生同士が集まって、試行錯誤して作品を作っていく。

「大事なのはコンセプトですよね。ファッション写真て、広告でしょ、そこにあるメッセージというのは、クライアントの意向を表しているものだから、僕のものじゃない。それに学生時代に作っているようなファッション写真なんて、そのブランドの企業イメージやCI(企業理念)が含まれているわけでもない。かといって、そこに自分の哲学があるわけでもないから、自分独自のアートとも言えないわけですよね」

「だから、クライアントありきの広告写真というものを、どう表現したいのかが分からなかったんですね。それだったら、何かひとつのテーマの中で、スナップフォトを撮っている方が、ずっとコンセプトがあると思ってました」

桑嶋さんが、広告写真という制約された表現の中に“自由”を見出したのは、ユーゲン・テラーの写真との出会いがきっかけとなった。

「例えば、クリップオンストロボを直に飛ばして、モデルの目が赤目になってしまっても、そのまま大企業の広告として使われているんですよ。その時初めて“写真て自由だな~”って思ったんです」

「広告写真が自由というよりは、撮っている人の自由な雰囲気、相手との自由な距離感というのが分かって、それがすごく嬉しかったですね。そこまでいけるのは、稀なケースだと思うし、そういった表現が受け入れられるまで、またそういう立場に至るまでには時間がかかったとは思いますけど。ただ、そういうフォトグラファーの裏側の苦労は抜きにして、当時、一人の一般読者としてそれらの広告を見た時に、すごく“自由”を感じられた。“何でもありなんだぁ”って。コンパクトカメラで、ノーファインダーでシャッターを切っても全然OKなんだってね」

「学校で習うことって、露出を計ってポラを切って、フィルムは切り現して…ひとつひとつを正確に確実にこなしていくことだった。それももちろん大事なんだけど、でもそれらを“崩す自由”があるんだってことがすごく新鮮で、感化されましたね」

その“自由でいいんだ”という気づきは、桑嶋さんの作品の中にはどのような形でいきてきたのだろうか?

「テクニック的なものではないですけど、自分がいいと思ったものを撮ればいいんだって思いました。それまでは、これいいなって思っても、自信を持てなかったりしたんです。本当にこれ面白いのかなとか、本当にこれはきれいなのかな、もしかしたらオシャレじゃないかもしれないって、自分が心動かされたものを撮る前に、ストップをかけてしまうところがあって…。」

「でも、そういった自分の中の壁がひとつ取っ払われた気がします。僕が面白いと思ったら、それを僕なりに撮ればいいって。例えば、本棚の中の本が斜めになっていたとしたら、その斜め具合を、自分なりにいかに撮るかを考えればいいんです。そうやって表現することに躊躇しなくなりました」

 

本能で感じるまま表現し続けたい 写真家・桑嶋維インタビュー インタビューvol.3

ムービーの勉強のためにイギリスに留学。そこで写真という表現方法に出会った桑嶋さん。“何かをやらなきゃはじまらない” と上を向き、行動をし続けるが、写真家・桑嶋維として活躍するまでには、紆余曲折があったようです。今週は帰国をしてからのお話です。

突然の帰国、そして営業

デジタルフォトグラフィー科に編入して半年後の1997年暮れ、当時付き合っていた彼女との結婚を機に退学。しかも父親の病気が発覚し、急遽帰国することになった。4年間イギリスの学校で多くのことを学んだとはいえ、実績も何もないままでの帰国。日本での新たなスタートに不安はなかったのだろうか?

「僕は、オプティミストというか、なんでも良い方に考える人間なんです。本当に深く考えていなかったんですね。ただ、今でもそうですけど、やっぱり自分が面白いと思うものを伝える手段としては、コンテンポラリーな雑誌で最初に表現するのが一番だと思ったので、いろんな雑誌の編集部に売り込みに行きました。でも、当時はいつまでたっても連絡はこなかった。だから、もしかしたら僕の写真って違うのかな”って」

結局、義父の紹介で、山梨県で広告代理店へ就職。営業、企画、デザインを担当し、カメラマンに指示を出す立場になった。広告代理店に就職した時点で、桑嶋さんは既に27歳。毎月給料をもらえ、生活は安定した。

「それでも写真は撮り続けていました。写真を撮りたくて仕方がなくて、営業へ行くときにもカメラを持っていましたね。対象物は、山梨県らしいもの。その土地に行かなければ分からない、面白いものです」

ライフワークのように撮り続けたそれらの写真は、2005年『山梨日日新聞』で連載されることになった。週に1回、写真と文章で綴られた連載は、当初6回の予定を超え、全23回の連載となった。

「僕たちの周りには、ちょっと面白いなと思っても、行ってみなければ分からないことがたくさんあるんですよ。そして、僕がその場所に行けたのは、やっぱり写真家だからだと思うんです。写真を通じて、コミュニケーションをとれたり、知らない世界を垣間見ることができるんですよね」

「僕は、“こんな面白いことがあった”とか“こんないい子がいた”っていうことを、まず人に伝えたいって思うんですよ。そうやって撮りためていたものや、新たに取材したものを、日日新聞の連載で発表させていただいたというわけです」

「同じ日本国内であっても、カルチャーギャップを楽しむということかな。そういう感覚は、僕の生まれ育った環境、子供の頃の転校生活から感じたものそのままなんです」

やっぱり写真がやりたい!

義父の紹介でせっかく就職した会社だったが、その約1年後に辞めてしまう。

「ある時、仕事で、1億円のスタジオを持つカメラマンの事務所へ行ったんです。事務所や美容室もついて、すごくかっこいいスタジオだった。でも、そのカメラマンは、仕事以外ではカメラを持つこともなく、自分の作品も撮らないって言うんですよ。僕は、こんなに写真が好きで、いつでもカメラを持って写真を撮っているのに…。だったら、もう一度勝負してみようと思ったんです」

会社を辞め、再び写真を持って、東京で営業を始めてはみたものの、やはり期待していたような反応を得ることはできなかった。編集部からの電話は鳴らなくても、毎日の時間、生活は規則正しくめぐってくる。とりあえずお金を稼ぐために、桑嶋さんは、自宅近くのレンタルビデオ屋でアルバイトを始めることにした。

「そのレンタル屋さんの先輩にあたる人も、実はカメラマン志望だったんです。東京で写真の学校を出て、カメラマンになるぞ、という矢先に父親が倒れてしまい、地元の山梨に帰ってきたらしいんです。彼は、広告写真をやりたかったみたいで、僕はいろいろな話を聞いて勉強させてもらいました」

ある時、写真展を見るために先輩に連れられて行ったのが、山梨県立美術館だった。

「二科展か何かで賞を受賞した人の写真展でした。また僕の悪い癖なんですけど、その作品を見た時に『この人が写真展をできるなら、僕にできないわけがない!』って思っちゃったんです(笑)」

「そこで僕はさっそくイギリスで撮った自分の作品を持って、美術館に直接交渉に行った。そうしたら、キュレーターの方が一発OKしてくださって、一番大きな会場を貸してくれたんですよ。『僕の作品で、この山梨にも風穴を開けなきゃ!』って、それがそのまま写真展のタイトルに。『エアーホール2000』です(笑)」

写真展の開催が決まったと同時にアルバイトを辞めた。『また僕の悪い癖なんだけどね…』と桑嶋さんは言うが、それだけの強い思いと行動力がなければ、今の桑嶋さんのスタイルはなかったのではないだろうか。何かに対する“思い”、はあっても、めぐってくるチャンスやタイミングをうまく自分のものにできる人というのは、なかなかいないのかもしれない。

僕のサンクチュアリ

山梨での写真展が決まる以前から、東京での営業活動は地道に続けていた。そんな桑嶋さんに、ある一つの転機が訪れる。

「ある日、『DUNE』という雑誌の林文浩編集長から突然連絡がきたんです。今度“サンクチュアリ”というコンセプトで、9人の若手写真家による写真を掲載するんだけど、それに参加しないかって。その他の8人は、錚々たるメンバーでした。吉永マサユキさん、石坂直樹さん、菊池修さん…」

一人一箇所ずつ場所が振り当てられ、桑嶋さんが担当したテーマは“富士山”。新しく出版された写真集『朱殷』にも掲載されているが、桑嶋さんが撮影した“サンクチュアリ”は、薄紫色に染まる富士山を背にした小さな墓地に、おばあちゃんから孫までの親子3世代がいて、その空間を夕日が照らしているというものだった。タイトルは『祖霊家ラ』(それから)。

「富士山って、日本人にとって昔から何か特別な山なんですよね。父権の象徴だったり、霊山として祭られたり…様々なものの象徴だったりするんです」

「この写真を撮影した場所は、山梨県の忍野村。忍野八海という湧き水で有名な土地なんです。お墓というのは、昔から、その村の中で一番景色のいい場所に作るでしょ。しかも、このお墓は後ろに富士山がそびえ立っている。だから、この場所というのは、きっと何百年も前から人々にとって特別な場所だったんじゃないかと思ったんです」

「そこに写っている3世代にわたる4人の家族は、古いものから新しいものが、ひとつの輪になっているような絵にしたかった。サンクチュアリと呼ばれるようなところは、時代や流行的なものに流されない、ということを表したかったんです」

 

本能で感じるまま表現し続けたい 写真家・桑嶋維インタビュー インタビューvol.4

ある一本のビデオとの衝撃的な出会い。『闘牛』というドキュメンタリー、その中でもかなりのコアな分野のものでした。桑嶋さんは、このようなテーマと向き合い、果たしてどのような方法で発表していったのでしょう。今週は写真集制作について詳しくお話いただきます。

闘牛で価値観が崩された

雑誌『DUNE』での写真掲載後、桑嶋さんは、ずっと興味を持っていた“闘牛”写真の掲載の話を持ちかけた。

「僕は、自分が面白いと思うことを伝えたい、というのが一番にあって、それができる環境、媒体や編集者の方などには、機会あるごとに自分の思いを伝えてきたんです。『DUNE』の編集の方にも以前から闘牛の話をしていて、わりとすぐにページを組もうかというお話をいただきました。それで、徳之島へ取材に行くことになったんです」

桑嶋さんが闘牛に興味を持ったのは、イギリス留学中に一時帰国した時だった。妹の知人に徳之島出身の人がいて、その人から闘牛のビデオを見せてもらったのだ。

「本当に衝撃的で、それまでの自分の価値観が覆されました」

「僕の中でいいと思っていた今までの価値観が崩れて、海外ではなくて国内に目が向くようになった。それと同時に、自分自身にも自信がついたんです。というのは、転校が多かった僕は、子供のころから国内のカルチャーショックを体感して、そのギャップを常に楽しんできたでしょ。そういう、僕のバックグラウンドにあるもの、僕が持っているものを表現すればいいんだって。徳之島の闘牛というのも、まさに国内カルチャーショックだったわけです」

「もちろん、海外に行って写真を撮るというのもいいんですよ。でも、僕には、生まれ育った環境、日本国内を転々として感じたこと、僕の生き方そのものを表現できることの方が面白いと思えたんです」

『DUNE』で闘牛の写真を発表すると、それを見た雑誌『STUDIO VOICE』の編集長から面白いとの反応があり、闘犬、闘鶏、錦鯉などの写真と文章で、半年間の連載をすることになった。

写真集への第一関門

桑嶋さんが、衝撃を受け、伝えたい、表現したいと思ったテーマ。それがようやく写真集という形になる。

「僕の中では、やっぱり写真集が、一番のプレゼン力がある媒体だった。今はビデオやDVD、インターネットなどたくさんあるけれど、写真集は何もデバイスがいらないし、その場で、はいと見せることができる。それに、手で触れる、触角に残るものは、視覚よりもより残るのではないかなぁとも思うんです。アナログだけど、ビジュアルの最大限の伝わり方です」

「一番はじめの写真集『闘牛島徳之島』の場合は、とりあえず、闘牛、闘犬をまとめたBOOKを持ってまわりましたね。仕事の営業でもありましたが、こういった面白いものがありますから、やりませんか?という感じでお話していました」

「歴史的に価値があるものだけど、これが面白いと思うのは、僕の主観も入っていますからね。僕の提案というのが、果たして一般的にも必要があるものなのか、ということも含め、いろんな雑誌の編集者に意見をお聞しました。自分の中にもフィードバックすることができるし、営業に持って行くブックにも反映させたりしていましたね」

そして、めでたく一冊目を出版したその一年後、早くも2作目の写真集となる『朱殷』を出版する。

「写真集『朱殷』を出版できることになったのは、知り合いのギャラリーの方が、今回出版していただいた求龍堂の編集者の方をご紹介してくださったのがきっかけでした」

「実は最初の一冊目の写真集『闘牛島徳之島』を作っている段階から今回の企画があったといっても過言ではないんですよ。音楽でいうと、アルバムが『朱殷』ですね。いずれは錦鯉は錦鯉だけ、闘犬は闘犬だけ、一つずつ出していきたいと思っています。闘犬というと、高知でしかやっていないと思われているようですが、実は全国区ですし、世界版だって作れる程なんです」

一般的には闘犬というと、しめ縄をつけた土佐犬というイメージは浮かぶが、闘っているシーンや犬そのもののフォルムというのは、なかなか見る機会がない。しかも、競技とはいえ、闘犬だけに限らず、闘牛も闘鶏も、出版するにはデリケートな被写体ではないだろうか。写真集を出版するためには、どのような経緯があったのだろうか。

「はじめは、ファイルにまとめた大きい写真で、いくつかの種類のBOOKを見ていただきました。今回の闘牛、闘犬、闘鶏、錦鯉など今回の写真集に出てくる被写体はどれも表に出てきているものではなかったので、難しかったかもしれません」

写真集を出版する経緯はさまざまだか、企画がある場合、通常、一人の編集者が企画を持ち込み、会社内で議論、OKが出なければ出版はできない。企画の段階でもふるいにかけられ、出版までは、数々の問題をクリアしていかなければならないのだ。

「まずは一人の編集者に、いいなぁと思ってもらわないといけないんです。そして、会社に企画を出していただくというのは、第一関門というか試験みたいなものです。例え批判的な意見があっても、それぞれのプロの目で見ていただけるので、すごくありがたいこと。僕と編集者がいいと思っても、それが他の人に伝わらないこともありますからね」

桑嶋さん自身も、ビデオを用意したり、それぞれの歴史の資料を用意したり、写真だけではなく、さまざまな資料を提示したという。

「『Number』のアテネオリンピック号ではセンターカラーの8P、『STUDIO VOICE』では半年間の連載、『新潮45』は文章を入れたものとか。今まで雑誌等で掲載したものに関しては、だいたいお見せしましたね。それは、世の中にもニーズがあるということだと思うので、プレゼンの中に入れました」

「闘犬や闘牛は700年くらい昔からあるものですが、世間一般からしたら、新しい価値観みたいなものを提示することになると思うんです。ですから、その新しい価値観を果たして、どれだけの人が受け入れいれてくれるかという問題に関しては、議論するべきだし、逆に、その価値観を伝えるためにどうしたらいいかを検討する時間も大切なプロセスでしたね」

信頼するよき理解者たちとの出会い

「通過させてはいけない、伝えずにはいられない。だから、一度写真集を開いた人には、一生トラウマとして残るくらいのインパクトのあるビジュアル性で行きたいと思っていたんです」

「冒頭にある闘いの写真や、血が飛び散っている写真は、特に雑誌では、スポンサーが下りてしまう場合もあるので出しにくい。クレームがくる場合もあります。でも、闘いでの流血など、エネルギッシュで迫力のあるシーンがなければ、今回の写真集のコンセプトも薄れてしまう。それにモノクロだけになってしまったら、今回のテーマの一つである血の色、それぞれのアイデンティティとして、何もかもが共有できるというコンセプトが、きちっとページの中で生きてこない。この写真集を出す意味もなくなってしまいますからね」

「そういった意味でも、僕の写真を理解し、興味を持ってくださる編集者に出会い、美術書の出版社で出版させていただけて、僕はものすごくラッキーだったと思います。僕というよりは、僕が撮っているもののパワーが伝わったんでしょうね」

「構成に関しては、僕はもともとPV(プロモーション・ビデオ)の監督を目指していたので、ビデオクリップの感覚で編集していったという感じです。例えばビデオだと30分の1フレームで動いていくわけだけど、印刷の場合は、今回の版型だと1折16ページ。16というのをワンフレームにして、積み重ねて行きました。映像の編集のようにですね。そして余白を作らず、立ち落とし(全面写真)にする。なので、必然的にテレビの画面を見るような感覚に近く仕上がったと思います」

写真の構成は、はじめに桑嶋さんが並べたものを編集者に見てもらい、その後はアートディレクターが加わり、作り上げていった。

「今回も前回の写真集同様、アートディレクターには、フィッシュデザインの大橋さんと落合さんというユニットで活躍されている方にお願いしました。僕が最初に仕事をいただいた『DUNE』のアートディレクターだった方で、その時知り合ってから、ずっと公私ともにお付き合いさせていただいている方です。仕事もそうですし、作品の方向性とか、どういう手法で撮るなど、相談し、いろいろ積み重ねてきたある意味チームともいえる方々です」

編集者、そしてアートディレクターなど、信頼できる人たちとの出会い。クリエイティブの世界では、1+1+1=3ではなく、10にも100にもなる程のパワーが産まれるのだ。

「誰かに依頼されて作っている訳ではないし、僕自身がやりたいと思ったことに賛同してくれて、またそれを僕だけの世界だけではなく、世間に出すために、ビジネスにまで考えてくれた編集者と、またよりよく演出してくれたデザイナーのアートディレクションの力はとても大きいですね」

「ドライに言えば出版というのは仕事かもしれないけれど、みなさん仕事の枠を超えて、徹夜をしながらもいろいろ考えてくださったりして…。この出会いは、僕にとって本当に財産ですね」

「ですから、こういうチームというか、一つのものを作り上げるための“熱”というか・・・、この目に見えない “熱”があるからこそ広がっていくんだと思います。また、そうなる自信もありますし、それがあるからこそ、伝わっていくんじゃないかなと思います」

「写真集を出したい方はたくさんいらっしゃると思いますが、実は、この理解力のある編集者と出会うというのが一番時間のかかることかもしれませんね」

 

本能で感じるまま表現し続けたい 写真家・桑嶋維インタビュー インタビューvol.5

よき理解者たちと強力なチームワークで桑嶋さんの写真集『朱殷』が完成しました。最終回となる今週は写真集に登場した人々たちとのエピソードをお伺いしています。また、みなさんへのメッセージもありますので、お見逃しなく!!

一枚の写真に写るドラマ

信頼できる人たちとの出会いが結実した写真集『朱殷』を出版。切り取られた一瞬の迫力と強さ、その美しさ。被写体にもなった各関係者の方たちは、初めて見るプロが撮った写真に感激し、とても喜んでくれたという。

「僕の写真に快く協力してくださった関係者の方々、写っている動物たちもそうですが、それを支えている人々の真剣さ、そのドラマがいろんな形で想像できると思いますよ」

「例えば闘犬でいうと犬は一番身近な動物なので、関係者の方々もすごくデリケートです。一般的なオムニバス形式の写真集というカタチで発表させていただいたのは僕が始めてだと思います」

「写真集の中に闘犬大会の前に関係者の方々が一列に並んだ写真があるんですが、これは青森の支部の方の写真です。遺影を持っていた方がいらっしゃったので、気になってお聞きしたら、全国大会に行くのが決まったあとに急死されてしまった方だったんですよね。亡くなった方も本当に犬を愛していらっしゃった方で、仲間の人たちが、その方への弔いをかねて犬を出場させたんですよ。しかも、その試合中、ずっと遺影を持ってその遺影に話しかけながら応援しているんです」

「そこまでの情熱というのは、普通ないですよね。単なる趣味ではなく、それを超えている。僕が知り合った闘犬家の方たちは、横のつながりがあって、みな助け合っています。深い絆が犬を通して芽生えるというのは、もう趣味のレベルじゃないんですよ。ドライな人間関係とは違うんです。それは、闘犬だけではなく、闘牛、闘鶏…、それぞれの関係者の方々も同じ。動物と人とのつながり、そして動物を介しての人同士そのつながりにはものすごい愛があるんです」

「もともと闘犬は武士道で、士気を高揚させるために始まっているので、関わっている方々は、みな侍魂を持っていらっしゃいますね。純粋に取り組まれているんです。闘牛にしても、闘犬にしても、大会にはみなさん家族でいらっしゃっていて、みんながファミリーのような感じなんですよ」

「闘牛や闘犬だけじゃなく尾長鶏や錦鯉なども、みんな真剣に、強さや美しさを競っている。この読者のみなさんも是非観に行って欲しいですね」

「美しさや強さというのは天賦のものであって、なろうとしているのでなく、もうすでになっているものなんですよね。僕は、それを崇めたたえるために、表現したかったし、この本を作りたかったんです。ですから、なるべくしてなったものを享受してたたえるということも、一つの楽しみのあり方のような気がするんですよね」

表現方法にはこだわらない

今後も撮り続けて行かれるのですか?

「今後も続けたいテーマでもあるので、写真集というだけではなく、PV(プロモーションビデオ)などいろんな分野のものともコラボをしていくのも、いいのかなと思います」

「僕自身は、表現するものには、実はこだわっていないんです。次は、文字に行くかもしれないし、映像に行くかもしれない。自分の伝えたいものを、自分が表現できる一番いい手法を使って演出すればいいんじゃないかなぁと思います」

「以前、メンズノンノの仕事で、人気のブランド・ネイバーフッドのデザイナーの滝沢さんにお会いしたことがきっかけで、ネイバーフッドでも、闘牛、闘犬、闘鶏の写真でコラボしていただいたこともあります。ブランドの力というものは、大きいですけど、血だらけの格闘シーンの写真がプリントされたTシャツを、若者たちが着て、原宿やら表参道やらをデートするのかと想うと、まさかと思いましたよ。だから、本当に完売したとお聞きした時は、びっくりしました(笑)。その時は、店内にも闘牛、闘犬、闘鶏の写真をディスプレイしていただきましたね」

それは、今回の『朱殷』の写真集を見ていただければ一目瞭然。桑嶋さんの写真は、強さの中に美を感じるアートなのだ。デザイナーもTシャツを着る若者たちも、グラフィックとして、その写真の中に光るアート性を感じたのだろう。

自分のステージで撮ればいい

最後に、これから“写真で食べていきたい”という人へメッセージを伺った。

「写真家っていうのは、他の仕事をしていてもできると思うんです。お医者さんでありながら、タクシーの運転手にはなれないけど、医者をやりながら写真家にはなれるんですよ」

「いわゆるカメラマンというのは、写真でご飯を食べている人だけど、写真家というのはそうじゃなくてもいいと思う。写真でご飯を食べていないからって、“写真家じゃない”とは言えないと思うんです」

「タクシーの運転手をやっていても、厨房で働いていてもいいんです。その人なりのステージで表現したい写真を撮ればいいわけで、そうやって撮ったものは一つのものにまとまると思う。やりたいこと、撮りたいもの、表現したいものがあればできるわけですからね。“写真家”になりたいなら、そうした方がいいかもしれない。その方が、余計なストレスがたまらないと思いますよ」

「最初の時点で、“写真家”になりたいのか、“カメラマン”になりたいのか、それは決めた方がいいと思いますよ。写真家としての活動と、それ以外のカメラマンとしての仕事を両立できるならやってもいいと思う。僕は、写真を“撮る”ことが本当に好きだから、自分の作品以外の仕事でも楽しんでできるんです。でも、そうじゃないのなら何がなんでもカメラマンになる必要はないと、僕は思いますよ」